☆ サイカイ ☆  春だ。  僕、小山内桜は真っ先にそう思った。頬を撫でる風は少し冷たいけれど、優しく、駅の正面にある広場の桜はところどころ蕾を綻ばせている。  僕は胸一杯に深呼吸する。懐かしくも新鮮な街の空気。別に、僕はこの街に住んだことがあるわけじゃない。だけど、子供の頃、いや、今でも周りからすれば十分に子供だろうが、ともかく、今よりもっと小さかった時、僕はこの街に何度か遊びに来たことがある。  その時は、これから会う予定の双子の姉妹と一緒に遊んでいた。  かなりの間会っていないので、顔もだいぶ変わっただろう。あの二人のことだから、母親に似て綺麗に育ったに違いない。その一方、僕はといえば、前髪ばかりが伸びた、オシャレしようなんて気ゼロの姿。服装だって、履き古したジーンズに着古したジャケット。  まあ、格好はどうでもいい。とりあえずは、双子の姉妹と合流しなければならない。  僕は時計を確認した。示す時刻は十時の十分前。待ち合わせには少々余裕がある。本当はもう少し早く着いておきたかったのだが、電車に乗り損ねたせいで、予定よりも二十分遅く着くことになった。  僕はトランクケースを引きながら、駅前の広場を目印の一際大きい桜へと歩み寄る。なるほど、大きい。無骨な幹は太く天に聳え、根はその幹をしっかりと支える。枝も立派なものだ。ただ、蕾が綻び始めたばかりなので、少しばかり侘びしい気もする。  僕は心の中で、 (ただいま――)  そう告げていた。僕がこの街に最後に来てから、変わらずに残っていたのは、この桜の老木だけだったから。  僕が長くこの街を訪れない合間に、景色はだいぶ変わった。ただ広いだけだった駅前は噴水のある広場とタクシーやバスのロータリーを備え、駅舎自体も塗炭張りのみすぼらしいものだったのだけど、今は煉瓦風のタイルをあしらったオシャレなものになっている。  八年という時は、街を美しく変えた。見慣れた景色がなくなったことによる、一抹の寂しさもあるにはあるが、美しく変わったことは素直に嬉しい。  僕はもう一度時計を確認する。それから辺りを見回してみるが、人待ちらしい人物はいない。まだ少し時間があるから、こんなものだろう。それに、僕は待つことに対して慣れている。一時間までなら普通に待ってしまう。知り合いから言わせれば、おかしい、ということだけど、気にならないものは気にならない。どうこう言われようと、これが僕の性格なのだから仕方がない。  と、そんな時、 「ネエネエきみ。オレたちと一緒に遊ばない?」「オレ、おいしい店知ってんだけど」  何とはなしに目を向けると、三人のいかにも軟派な男が一人の少女を囲んでいる。考えるまでもなくナンパだろう。  囲まれた少女は困っているようだ。僕はどうしたものかと考える。できれば、男達の方とは関わり合いになりたくない。だけど、女の子を助けてあげようと思うのなら、関わらざるを得ない。 「やめて。待ち合わせしてるの」  少女は気丈に言った。 「いいじゃんいいじゃん、そんなヤツ」「きみを待たせるヤツなんてほっといて遊ぼうよ」  ああ言えばこう言う。ナンパってやつはそんなもの。根負けしたらあちらさんの勝ち。  確かに、僕以外に待ち合わせをしているような人はいない。  仕方ないな、と呟き、僕は荷物を引いて彼らの方へと歩き出した。  身じろぎした男達の隙間から、少女の姿が見える。なるほど。ナンパしたくもなるかも知れない。肩に軽くかかる髪を編んだ快活そうな印象の少女。溢れる元気が彼女を輝かせているように見える。が、今は傍迷惑な男達に囲まれて表情を曇らせている。 「あっ……」  少女が僕に気付き、小さく声を上げた。しかも、僕がそちらへまっすぐに向かっているのを察したのか、にっこりと笑う。そして、 「ごめんごめん。なかなか服が決まらなくて。結構……待たせちゃったかな?」  男達の間をすり抜け、僕の腕に自分の腕を絡める。僕は突然美少女にそんなことをされて戸惑ったけど、 「ううん。僕も今来たところだから。むしろ、僕の方が遅刻したんじゃないかって、心配で心配で」  すらすらとそんな言葉が出て来た。  ちらりと、ナンパ男を見ると、明らかに面白くなさそうな顔で、 「けっ……なんでそんなボサボサ頭と」  しかし、一瞬後には嘲りに顔を歪め、 「まあまあ。そんなつまんなそうなヤツほっといて、やっぱりオレたちと遊ぼうぜ? きっと、オレたちの方が楽しいぜ?」  すると、少女はキッと男達を睨み、 「好きになるのに、顔なんて関係ないでしょ!? それに、格好ばっかのあんたたちみたいなのより、優しい人の方が好き」  毅然と言い放った。 「けど、オレも結構優しいぜ? まあ、確かに顔は関係ねえよな……でも、オレって結構顔よくない?」  男のうち一人が顔をずいっと近寄せる。まあ、ナンパをしているだけあって、見れない顔じゃない。まあ、今の僕とは比べるべくもない。  だけど、僕は言わなくてもいいことを呟いてしまった。 「顔は関係ないんじゃないんですか?」  途端に男の表情が変わる。 「んだと? たまたま彼女がいるからって、ナマイキ言ってんじゃねえよ……」  今まで顔にへばり付いていた笑顔を剥ぎ取り、僕に向かって手を伸ばす。  どうやら、怒らせてしまったらしい。  男の手が触れる瞬間、突然に、 「いい加減にしなさいよ、あんたたちッ!」  少女の怒号が駅前の広場に響き渡った。男達は愚か、僕達のことをちらちらと見ながら通り過ぎようとしていた通行人まで動きを止める。 「しつっこいのよ、あんたたち。そんなに彼女ほしいなら、中身を磨きなさいよね? だいたい、あんたたち、あたしの――」 「はいはい、そこまで。周りの人達が怯えてるわよ?」  言い募ろうとする少女の言葉を遮って、何時の間にか出来た人の輪の外から、声が聞こえる。それから、一人の少女が人の合間を縫って輪の中に入ってくる。 「唯!?」  先程えらい剣幕で男達を怒鳴りつけようとしていた少女が驚いた顔をして、彼女の言葉を遮ったのであろう少女の名を呼ぶ。 「うん。お待たせ、舞ちゃん」  二人の名が引っかかる。しかし、その理由もすぐにわかった。しかし、今言う訳にはいかない。そんなことしたら、演技していた意味がなくなる。  が、もう一人の少女が現れたことで白けたのか、男達は肩を怒らせて去って行った。それにつれ、人だかりもばらけていく。  僕はそれを見て、小さく息をついた。  なんで最初に気付かなかったのか、自分でも不思議だ。満ち溢れんばかりの元気さが何よりの証拠だというのに、本当に気付かなかった。 「まあ、だいたいは何があったのかわかったけど……で、舞ちゃん。いつまで桜くんの腕に抱き付いているつもり? まあ、再会を喜びたい気持ちはわかるけど」  髪の長い少女、唯ちゃんがイタズラっぽく微笑む。  一方、舞ちゃんは表情を凍りつかせ、食い入るように僕の前髪に覆われた顔を見る。それからやにわに僕の前髪を掻き上げる。  そして―― 「ぎょえええぇぇぇッ!」  およそ女の子らしからぬ絶叫が駅前の広場に響き渡った。 ☆ 雪永家の人々 ☆  僕は荷物を引きながら、双子の姉妹に挟まれる格好で雪永家への道を急ぐでもなく歩いていた。 「舞ちゃん。いい加減になさい。桜くんとは久しぶりの出会いなんだから」 「うぅ……だってさ、昔も女の子っぽいとは思ったよ? だけど、成長すれば、絶対に男らしくなると思うじゃん。でも……でもねぇ……」  頼むから、そういうこと言わないでください。僕は内心で呟いた。 「まあ、それはそうだけれど……どうしようもないものよ?」 「そうだよ。いくら言ったって変わらないんだから。だから隠してるんだし」  すると、 「そこよ」  八年の時間が作った身長差によって、下から舞ちゃんがジト目で見上げてくる。 「な、何?」  思わず僕の声がうわずる。 「なんで隠すのよ?」  ずばり訊いた。率直に訊いた。  解答。察してください。お願いします。 「…………」 「ねえ。なんでよ、なんでよ?」  僕が黙っていると、舞ちゃんが肩を掴んで揺さぶってくる。 「いい加減になさいね、舞ちゃん?」  今まで黙っていた唯ちゃんが仲裁に入る。すると、舞ちゃんが大人しく手を離してくれたので、僕はほっとした。  が、唯ちゃんの顔を見ると、舞ちゃんの顔を見て意味ありげに笑っていた。  僕がこの笑顔の理由に気付いたのは、もう少し後の話。        ☆  以後、僕の顔についての話題には一切触れることなく、お互いの近況報告をしながら、雪永家への道を歩いていた。 「へえ……じゃあ、桜くんのお父さんとお母さんは海外に?」 「うん。きっかり三年」 「だから、うちに来ることにしたのね?」  話題は何故、僕が雪永家にお世話になるか、というものになっていた。  僕は首を振り、 「最初はアパートでも借りて一人暮らしするつもりだったんだ。でも、母さんが翠さんに事情を話したらしくてね。翠さんがうちに来れば、って言ったみたい。んで、アパート借りるよりもそっちの方が安いだろう、ということで、お世話になることになった」 「まあ、うちはこれから住む桜以外にも、数人住んでるからね」 「そうなんだ」 「うん。お母さんは下宿みたいなことやるのが趣味らしくて。でも、私たちには一切相談しなかったわよね?」 「でも、予兆はあったよ。今まで使ってなかった部屋を片付けてたからね。そのときに、『なにやってんの?』って訊いたら、笑顔で、『ヒ・ミ・ツ』って言われた」  実の娘にすら伝えてないということは、他の住人には一切伝わってないということか。 「僕が来るって知ったのは?」 「昨晩よ。急に明日の朝十時に駅前の大きい桜のところで、って言われて。もう……ほんっとに慌てたわ」  唯ちゃんが微苦笑する。  かなり直前まで伏せられていたらしい。 「翠さんらしい、というか……」 「ホントよ。もう少し早く言ってくれたら、プレゼント用意できたのに」  ぷう、と舞ちゃんが頬を膨らませる。  今の言葉は、とても嬉しかった。 「プレゼントだなんて。ただでさえ、これから三年もお世話になるんだから」  でも、住ませてもらうのに、歓待を受けるのはどうかと思う。 「ふふ……性格はあまり変わってないみたいね」 「そうねー。背が縦に伸びて、前髪が伸びたぐらいかな?」  舞ちゃんが前髪がぐいっと引っ張る。 「いてて……」  真面目に痛い。  ぱっと舞ちゃんが手を離す。何時の間にか、二人が立ち止まっていた。その意味を察して、僕は彼女達の背後にある家を見る。門の表札に刻まれた名前は雪永。庭を備えた家は大きく、洋風。白い壁が日差しを受けて輝き、目に眩しい。  ここが、僕がこれから三年住むことになる家。  僕が視線を下ろし、二人を見ると、同時に破顔一笑。それから、 「ようこそ、雪永家へっ」  声を揃えた。僕も笑い返し、 「うん。三年間、お世話になります」  二人に伴われ――  僕はこれから何度となく通ることになる門をくぐった。        ☆ 「ここが桜くんの部屋よ。掃除はしておいたから。それと、自分の部屋なんだから、自由に使ってね」  家に入ると、翠さんが真っ先に部屋へ案内してくれた。ひとまず荷物を置け、ということだろう。 「ありがとうございます、翠さん」  ぺこりと頭を下げると、翠さんは手をひらひらと振り、 「そんな他人行儀にしなくてもいいわよ。これから三年も一緒に住むんだから、疲れちゃうわよ?」 「ああ、はい。そうですね」  確かに、三年も住むのに、何時までも他人行儀な態度という訳にはいかない。 「それと、欲しいものがあったら遠慮なく言いなさい。家具はだいたい揃えたつもりだけど、足りないかもしれないし。それじゃ、荷物置いて下に行きましょ」 「はい」  僕は入り口の脇に荷物を置くと、先に廊下に出ていた翠さんに付いて下に行く。行く場所はリビング。恐らくは、雪永家に住まう人々との顔合わせだろう。